'07年 |
10月9日、パリ郊外ル・ペック生まれ。本名はジャック・タチシェフ。
祖父はロシアの伯爵の称号を持っていた。 |
 |
'30年 |
家業である額縁職人の見習いをするのだが、兵役のときの経験を元にパントマイム役者の道を目指すとともに、ラグビーにも興じ、クラブチームに参加。そのチーム主催の公演で初めてスポーツを題材としたパントマイムを披露した。 |
 |
'33年 |
ミュージックホールの舞台に立ち、作家コレットにも絶賛されるなど人気を集めるが、家名を尊重する父親からは勘当される。 |
 |
'36年 |
ルネ・クレマン監督の短篇『左側に気をつけろ』の脚本・主演をこなすなど、3本の短編映画に出演&脚本に参加。 |
 |
'45年 |
クロード・オータン=ララ監督の『乙女の星』『肉体の悪魔』の2作品に出演した。 |
 |
'46年 |
ルネ・クレマンが自作のために監督をタチに譲ったため、監督第一作『郵便配達の学校』('47)を完成。
この作品に登場する郵便配達夫フランソワのキャラクターを出演させた長編第一作『のんき大将脱線の巻』('49)を公開したところ、大評判となり、ヴェネチア映画祭脚本賞、フランス・シネマ賞を受賞。
カラー版の『新のんき大将』はフランス映画史上初のカラー作品となった。 |
 |
'53年 |
『ぼくの伯父さんの休暇』はカンヌ映画祭国際批評家連盟賞、ルイ・デリュック賞に輝き、まったく新しい喜劇映画として評判を呼ぶ。風変わりな主人公ユロ氏は今なお人気を保ち続ける不朽のキャラクターとなった。 |
 |
'58年 |
『ぼくの伯父さん』はカンヌ映画祭で審査員特別賞、アカデミー賞外国語映画賞に輝き、世界中で大ヒット。
ところが膨大な制作費と3年の歳月をかけて製作した超大作『プレイタイム』はあまりにも斬新だったため興行的に失敗し、フランソワ・トリュフォーに擁護されたものの、タチは莫大な負債を抱えることに。 |
 |
'71年 |
監督・脚本・主演作品『トラフィック』でユロ氏がスクリーンに最後の登場を果
たした。 |
 |
'73年 |
スウェーデンのテレビ局に依頼され、『パラード』を監督する。
全作品に対してセザール賞が贈られた。 |
 |
'82年 |
11月4日死去。 |