ベルイマンの映画にとてつもない衝撃を受け、彼のようになりたいと心底思った。
ベルイマンの作品は一つ残らずすべて観た。
電話で話したこともないし、何通手紙を書いても返事ももらえなかった。
話したいことがたくさんあったのに、それが叶わず悩んだよ。
自分なりに理解して、諦めたんだ。
ベルイマンなんてクソくらえだ!
僕にも自分の人生がある。連絡したくないなら、こっちも忘れようと思った。
でも彼を敬愛している。
悔しいが、僕にとって彼は全てだ。
大半の人は、自分の人生に満足していないだろう。
誰もが困難に直面し、様々な思いを抱えてもがいているのだろう。
ベルイマンは問題を簡単に扱わずに、人間の営みをそのまま描く。
年齢や状況によって人の考え方は変わるが、彼の映画は普遍的なことを描いているから、
国籍や民族が違っても共感できるんだ
今の時代、彼のような偉大な映画監督を生み出すのは難しいだろう。
僕は18歳だった。初めてベルイマンの映画を観た。あの日のことは忘れない。まるで啓示を受けた気がしたんだ。
どれほど衝撃的だったが、きっとわかってもらえないだろう。
まるでベルイマンに童貞を奪われたような気分だったよ。
ベルイマンは、ジャン=リュック・ゴダールやアンディ・ウォーホルのように、新しい映画の定義を作り出した。
彼は世界中の多くの映画作家にとって、強大な影響力をもつ存在だ。
僕はベルイマンの時代をくぐり抜けてきた。
彼が作った作品は全て観ている。素晴らしいものばかりだ!
私の人生で最も偉大な映画人だ。
あなたの映画は常に、私の心を揺さぶった。
作品の世界観を作り上げる巧みさ、鋭い演出、安易な結末の回避、
そして人間の本質に迫る完璧な人物描写において、あなたは誰よりも卓越している。
ベルイマンの映画は、すべてにおいて完璧だった。
恐ろしいまでに圧倒される演技、息を飲む撮影技術。
痛み、病、悲しみ、そして孤独の描写のなんという繊細さ!
ベルイマンの作品において最も心打つ特質は、
いっさいの虚飾をはいで、その〈本質〉だけをむきだしにした性格である。
この世に生をうけ、この世にある者なら、だれもが、そのすばらしさを理解し、評価することができよう。
小学校の時に、はじめて観たベルイマン監督の作品が、我が人生のトラウマになってしまった。
1960年代にベルイマンの映画を観るという事は、
スウェーデンのポルノ映画を観ることとなんら変わりないほどに、過激な事であった。
スウェーデンポルノ映画を観るのと同時に、当時の私はベルイマンの『沈黙』や『叫びとささやき』を見て、
あるいは高校の時に映画館で見た『不良少女モニカ』で、そしてリヴ・ウルマンという名前を聞くだけで、
いまだに幼少時の性の目覚めを思い出し、暗闇の中でドキドキした記憶で疼くのだ。
神だの、原罪だのはこれらの映画が植えつけたんだ。
ベルイマンとは、私にとって北欧の妖しく暗く輝く性の業を、幼い私の心の底に刻んだ罪深い黒い宣教師だ。
私のベルイマン最高傑作群は、『処女の泉』、『野いちご』、『恥』、『秋のソナタ』、
そして、『ファニーとアレクサンデル』。
『処女の泉』のすごさは、イノセンスの終焉を潔く迎える親力に拠る。
自然をもコントロールできる神々しい映画作家の姿もある。
中世の森の光と罪を洗い流す水の清らかさを謳って、黒澤明の『羅生門』と双璧をなす。
『羅生門』を年月かけて醗酵させたものが、『処女の泉』である、とも思う。
彼の作歴で忘れてならないジャンルは「先ず女優ありき」の作品群だ。これは「先ず母ありき」とリンクする。
『秋のソナタ』では魂の愛人リヴ・ウルマンと国家の母性イングリッド・バーグマンを競演させ、
ベルイマン自身の親としての不安を謳い上げた。結婚と離婚を繰り返し、子孫を残した巨匠だから、
子供たちへの贖罪の感覚がある。それが強烈な表現者の矜持に転化されて名作を産む。
その最高峰が『ファニーとアレクサンデル』。ここには、母への愛があり、親力の凄みがある。
神の家と演劇の家と魔術師(映画人)の家が香り高く同居している完璧なベルイマン映画は、
家族映画の至高のスペクタクルとなり、ベルイマンはこの一作で、映画作家の桃源郷に君臨している。
別に統計をとったわけではないものの、その世界的な評価の圧倒的な高さと比べるとベルイマンの日本での上映機会は不当に少なかったのではないだろうか。今回の特集上映は、その遅れを一気に取り戻せる絶好の機会である。主要な作品のほとんどがオリジナル企画で脚本も自身で書く作家性の塊のような監督である上に、「神の沈黙」とか「愛と憎悪」とか「生と死」とかWikipediaに書かれているのを見ると、つい重苦しそうで尻込みをしてしまうが、実際に見てみると驚くほどのユーモアと色気に満ちている。
『夏の夜は三たび微笑む』では男も女もだらしなくしかし真剣に艶やかな恋愛ゲームに明け暮れ、死をストレートに題材にした「メメント・モリ」映画の代表格『第七の封印』でさえ、有名な死神とのチェスの様子はそれだけでユーモラスだ。一方で油断していると『処女の泉』のような鈍器で観客を殴りつけるようなエネルギーに満ちた作品もある。ぜひ先入観を一度なくして自由で多彩なイングマール・ベルイマンの小宇宙を再発見して欲しい。
映画とは、俳優の仕種と台詞回しにより客観的に語られる物である故、文学で申せば畢竟通俗に属する「文芸作品」に成らざるを得ぬ、と思われていた時代に、なに純粋に「純文学」的映画だって出来るぞ、と示してみせたのがベルイマンであった、と記憶している。
『野いちご』の過去を追憶する場面で、常套手段としての過去の姿を示すべく若い俳優を起用するのではなく、現在の存在である老人のままで過去の日常を演じ切り、仕種ではなく心理劇として、映画を完成させた。「客観」であるべき映画表現が、「主観」即ち心理劇として成立した、これはベルイマンの発明であると思う。
映画とは、科学文明が生んだ芸術であるから、優れた映画は数尠いが、みな発明品である。その恩恵に肖って、後続の僕などは「純文学的映画」を、試みる事が出来るのである。
それを、映画的教養と申し、未来の平和の世創りにも、大いに役立つ物と確信する。
あなたはもしかすると、イングマール・ベルイマンの映画はいちども観たことがないかもしれません。でも、あなたが映画ファンなら、知らないうちにベルイマンの影をずっと見てきたはずです。誰もが知っているあの映画この映画が、ベルイマンから生まれたものだからです。
たとえば、デヴィッド・フィンチャーの『ファイト・クラブ』。ブラッド・ピットがカメラに向かって消費社会への怒りを吐き出すと、あまりの怒りでフィルムが映写機のスプロケットから外れるという衝撃的なシーンがあります。あれは、ベルイマンの『仮面/ペルソナ』という映画で、ヒロインの怒りでフィルムが映写機に引っかかって炎上するシーンに影響されています。さらに『ファイト・クラブ』ではエンディングにペニスの写真が1コマだけ、サブリミナルのように挿入されていますが、同じことをベルイマンは『仮面/ペルソナ』の冒頭でやっているのです。その他、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『複製された男』、スピルバーグの『ポルターガイスト』、デヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』などに、ベルイマンの『仮面/ペルソナ』を模倣したシーンがあります。
マーク・ウェブの『(500)日のサマー』、ジョン・マクティアナンの『ラスト・アクション・ヒーロー』、リンチの『ロスト・ハイウェイ』が、ベルイマンの『第七の封印』で主人公が死神と出会う場面を引用しています。
ウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』は、悪魔に取りつかれた少女の服装、部屋、十字架を股間に突き刺すシーンが、ベルイマンの『叫びとささやき』を元にしています。ミヒャエル・ハネケの『ピアニスト』、ラース・フォン・トリアーの『アンチ・クライスト』にも、『叫びとささやき』の影響をはっきり観ることができます。
アレハンドロ・G・イニャリトゥの『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』、ティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』は、ベルイマンの『野いちご』なしにはありませんでした。
ウェス・クレイブンの『鮮血の美学』は、ベルイマンの『処女の泉』のスプラッター版として作られました。 アンドレイ・タルコフスキー、ウディ・アレン、ロバート・アルトマン、ブライアン・デ・パルマ、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、フェデリコ・フェリーニ、スタンリー・キューブリック……、みんなベルイマンに倣った映画を作っています。
それはベルイマンが古典で基本だからではありません。『仮面/ペルソナ』の炎上するフィルムに代表されるように実験的で型破りでした。いわばロックにとってのビートルズが、世界の映画にとってのベルイマンだといえます。
「ベルイマンのテーマは『神の沈黙』である」と、よく言われます。なにやら難しく偉大な芸術家の大先生のように聞こえますが、そうではないと思います。ベルイマン本人はコンプレックスと欲望に勝てないダメな自分を映画のなかで赤裸々にさらけ出してきた人でした。厳格な牧師の息子に生まれ、母を虐待する父を憎み、それが神への不信になりました。また、子どもの頃から性に対する興味が強く、監督になると、主演女優と次から次に恋愛関係になり、次から次に愛した女性を傷つけ、その彼女たちを映画で共演させ、自分史をそのままフィルムに収めてきたのです。
革命的で、掟破りで、ダメ人間で、正直なベルイマン。その作品は今も新鮮さを失いません。この機会にぜひ、ご覧ください。