ベルイマン生誕100年映画祭

イングマール ベルイマン

1918年
7月14日
牧師の父エーリックと母カーリンの次男として、スウェーデンの地方の大学都市ウプサラに生まれる。3つ上の兄と4つ下の妹の3人兄妹の真ん中。
1924年(6歳) 父は説教がうまく、町の人気者だった。説教に感動したスウェーデン国王妃の推薦により、王立病院の専属牧師となり、一家は牧師館で生活をはじめる。厳格な父は、母や子供に対して体罰を与え、暗い衣装部屋の中によく子供たちを閉じ込めた。この暗い小部屋で、ベルイマンは、幻燈や映画の世界がめくるめくように展開していくような幻覚をみていた。
1925年(7歳) クリスマスに、母方の祖母アンナが兄に映写機をプレゼント。どうしても欲しかったイングマール少年は、100人の鉛の兵隊を交換条件に、ゲットする。
1938年(20歳) ストックホルム大学に入学。演劇の世界を志していたベルイマンは、文学・美術史学科に在籍。これまで人形しか演出したことがなかったベルイマンにとって、生きている人間を演出するのは楽しく刺激的なことだった。
1939年(21歳) 演劇活動に熱中し市立劇場の監督に就任、多くの戯曲を書き、自ら演出した。もはや大学に行く理由もなくなり、40年には大学を中退する。
1942年(24歳) ベルイマンが書いた戯曲『カスペルの死』が学生劇場で上演される。観に来ていたスウェーデン最大の映画会社であるスヴェンスク・フィルムの社長にスカウトされ、スヴェンスクの脚本部で見習いとして働くことになる。翌年、『カスペルの死』の振り付けを担当したエルセ・フィッシェルと初めての結婚をする。
1944年(26歳) ナチス信者のラテン語教師が担任をする高校を舞台にした『もだえ』の脚本を執筆。それが、当時ストックホルム王立劇場の主任を務めていたアルフ=シェ―ベルイ監督によって映画化され、興行的にも成功する。
1945年(27歳) エルセと離婚し、2人目の妻となるダンサー、エレン・ルンドストレームと結婚。
1946年(28歳) 『危機』で映画監督デビュー。しかし結果は惨敗。
1950年(32歳) 16歳の夏に家族で過ごした島で体験した淡い恋を映画化した『夏の遊び』を撮影。ベルイマン自身「初めから何から何まで自分の物、という感じの映画が撮れた」と語るように、大きな転機となった。これを機に自分の“作家性”を伸び伸びと展開させていきたいと考えるようになる。しかし、その後の『不良少女モニカ』『道化師の夜』といった前衛的な作品は、トリュフォーをはじめとするヌーヴェル・ヴァーグの作家たちに多大な影響を与えたが、国内では興行的にも批評的にもうまくいかなかった。
1951年(33歳) 映画雑誌「フィルム・ジャーナル誌」の編集長を務めていたグン・グールドと、結婚 (3度目)。
1955年(37歳) それまでの度重なる商業的な失敗から、スヴェンスクから映画を撮りたいのなら誰もが楽しめるコメディにせよ、との要求を受け『夏の夜は三たび微笑む』を監督。カンヌ国際映画祭で、<詩的ユーモア賞>を受賞。
その後、『第七の封印』(カンヌ映画祭審査員特別賞)、『野いちご』(ベルリン映画祭金熊賞)、『魔術師』(ヴェネツィア映画祭審査員特別賞)、『処女の泉』(アカデミー賞外国語映画賞)、『鏡の中にある如く』(アカデミー賞外国語映画賞)…と立て続けに傑作を発表し、世界中の映画祭を騒がせ、数々の賞を受賞するようになる。
1959年(41歳) ピアニストのケービ・ラレティと4回目の結婚をする。
1960年(42歳) ストックホルム王立劇場の演出家に就任し、63年からは総監督になる。これは演劇界最高の地位だったが、ベルイマンにとって煩雑と思える仕事に追われる毎日だったようで、69年に辞任している。
1961年(43歳) 恩師であるスヴェンスクの社長デュムリングが死去。『冬の光』を製作。
1962年(44歳) ビビ・アンデション(『第七の封印』『野いちご』)の紹介で、リヴ・ウルマンと出会う。恋に落ちるが、ベルイマンは当時ラレティと結婚しており、ウルマンもノルウェーに夫がいたため、当時のゴシップ紙を騒がす大スキャンダルへと発展。二人は互いのパートナーと離婚し、同棲を始める。しかし、結婚はしなかった。『沈黙』を製作。
1966年(48歳) リヴ・ウルマンとの間に子供が誕生。『鏡の中にある如く』のロケ地であるバルト海の孤島、フォール島に家を建て、暮らしはじめる。
『仮面/ペルソナ』の製作中、母カーリンが死去。晩年は父と別居していた。
1968年(50歳) 独立プロダクション「シネマトグラフ社」を設立。自分の作りたい映画を作るのに、様々な国・会社から資金を調達しやすくなった。
1970年(52歳) 父エーリックが死去。かつては憎んでいた父と30代後半になって和解したベルイマンは、毎日のように父のもとへ立ち寄り話し相手になっていた。そして、ウルマンとの同棲生活も終わりを告げる。
1971年(53歳) 「真っ赤な部屋に3人の女性がいる」というイメージから発展させた『叫びとささやき』の脚本を執筆。以前から知り合いであったイングリド・カーレボーと5回目の結婚をする。
1975年(57歳) ストックホルム大学から哲学の名誉博士号を授与される。ベルイマンの名声がいよいよ頂点に達したかに思えたが、その数か月後、脱税容疑という思わぬスキャンダルで足元をすくわれる。2か月弱でその容疑は晴れたが、スウェーデンに嫌気がさし、パリ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ベルリン、コペンハーゲンを3か月の間転々とし、ミュンヘンに落ち着く。
1978年(58歳) 同じくスウェーデン出身であるイングリット・バーグマンを迎え『秋のソナタ』を撮影。このとき撮影の一部を、ストックホルムで行うが、それが久しぶりの帰国だった。
1979年(61歳) 政府より正式な和解の申し出があり、11月、ベルイマンは帰国に同意する。そして、次の映画で引退を決めていたベルイマンは、自分の映画人生の最後を飾るものは、明るく健康的なものにしようと決め、脚本を書き始める。こうして取り掛かった『ファニーとアクレサンデル』は、スウェーデン映画史上最大(当時)の製作費12億円、俳優51名、エキストラ1000名、上映時間5時間11分のベルイマン最初で最後の超大作となった。
1983年(65歳) ヴェネツィア国際映画祭が、ベルイマンの全作品に対して、金獅子賞を与える。映画監督引退後も、ビレ・アウグスト監督『愛の風景』の脚本や、テレビドラマ、演劇の演出に活躍の場を移し、旺盛な創作活動を続ける。
1998年(80歳) カンヌ国際映画祭より「名誉パルム・ドール(パルム・ドヌール)」を授与される。
2003年(85歳) 突如として20年ぶりの新作『サラバンド』を発表。
2007年
7月30日
フォール島の自宅で死去。享年89。
■参考文献
『ベルイマン自伝』イングマール・ベルイマン、木原武一訳、新潮社、1989年
『ベルイマンを読む』三木宮彦、フィルムアート社、1988年
『ベルイマン』小松弘、清水書院、2000年
イングマール・ベルイマン

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