ドライヤー、存在の神秘の探求者

ドライヤー、存在の神秘の探求者

中条省平(映画評論家)

 映画とは、基本的に、イメージを使って物語を語ることです。観客は、スクリーンに映しだされるイメージを見ていますが、同時に、そのイメージが描きだす物語や、イメージのもつ意味を考えて、イメージの向こう側に自分なりの物語や意味の解釈を作りだしていきます。
 そもそもイメージとは、語源的に「イミテーション」のことで、本物の事物に表面だけが似かよった模造品にすぎないのです。イメージの背後には現実は何も存在していません。そのことは、鏡の映しだすイメージのことを考えてみれば明らかです。鏡像は本物そっくりですが、その背後には何もありません。イメージ(映像)とは、本物の現実にそっくりの空虚でしかないのです。ですから、映画とは、空虚なイメージを用いて、その向こう側に物語や意味を作りだすイリュージョン(幻影)の装置にほかなりません。
 そのようなイメージの本質にあくまでも逆らった映画作家がカール・ドライヤーです。その意味でドライヤーは映画芸術の限界を超えようとした異端の創造者だということができるでしょう。
 ドライヤーはイメージの向こう側に、イメージを超えた物語や意味があることを拒否しようとするのです。ドライヤーにとって、イメージはそれ自体で絶対的な存在の表れであり、彼の映画を見る者は、そこに物語や意味に還元できない存在のありようを感じとることになります。その結果、ドライヤーの映画の画面からは、物語や意味を超えた存在の神秘が湧きでてくることになります。ドライヤーの映画は、現実の存在を徹底的にリアルなまなざしで写しとりながら、その存在を、そこにあることがそのまま奇跡であるような神秘に変えてしまうのです。それが、ドライヤー映画の魔術です。

裁かるゝジャンヌ

 ドライヤーの無声映画時代の代表作『裁かるゝジャンヌ』を例にとってみましょう。
 ジャンヌ・ダルクを題材とする大多数の映画は、ジャンヌを神の声を聞いた聖女として描きあげます。当時の権力者や僧侶はジャンヌを魔女だとして火刑に処したが、じつは彼女は純粋無垢な聖女であった、と。これが大方のジャンヌ・ダルク映画の物語であり、意味なのです。
 あるいは、ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いた聖女だとされるが、彼女もほかの者と変わらず、自分を救済してくれない神を疑い、恨み、拷問や火刑を恐れて泣いた<人間>であった。しかし、これもまた別のジャンヌの物語であり、ジャンヌ伝説の意味の解釈です。
 しかし、ドライヤーはそのような物語や意味に与しません。『裁かるゝジャンヌ』が映画史上初めてすべての登場人物にメークアップすることを禁じたのは有名な話ですが、これはドライヤーの単なるリアリズムへのこだわりではありません。メークアップが、観客の解釈を一定の物語や意味へと方向づける人工的な技術だからなのです。
 ドライヤーは、ジャンヌの素顔の極端なクローズアップの連続によって、彼女が、物語や意味を超えた、いま・ここにしかありえない絶対的な存在であることを強烈に打ちだします。そこに見えてくるのは、ひとりの人間のけっして何ものにも還元できない多義的な存在のありようです。この多義性を神秘と呼ぶことが可能でしょう。現実をありのままに映しだすことが、即、なにか現実を超えた神秘のように見えてくること。これがドライヤーの映像の独創性なのです。

怒りの日

 『怒りの日』は、ある意味で『裁かるゝジャンヌ』と対照をなす作品です。というのも、『裁かるゝジャンヌ』が聖女とされる女性を題材としたのに対して、『怒りの日』は魔女とされる女性を主人公としているからです。そのうえ、『裁かるゝジャンヌ』は、白の発色を完璧なものにさせるため室内をピンク一色に塗らせてしまったというエピソードでも有名なとおり、「白の強烈な支配」(フランソワ・トリュフォー)で特徴づけられる映画です。これに対して、『怒りの日』は、登場人物たちの衣服も、室内も、多くの場面が夜の闇のような黒に沈められています。そして、ヒロインは夫を殺し、義理の息子と通じた魔女であることをみずから認めたように見えます。
 しかし、ドライヤーはそのような物語の解釈を提示してはいません。ヒロインはたしかに夫の死を何度も願いました。しかし、それだけならばどんな人間にもありうるできごとでしょう。また、たしかに義理の息子と関係を結びました。しかし、それが愛ゆえでないとは誰にもいえないでしょう。ヒロインが、夫の死を願い、息子と通じたことを認めたとき、彼女はそれまでの黒衣とはまったく異なる純白の衣裳を身にまとっています。つまり、彼女は黒でもあり、白でもある存在なのです。
 『怒りの日』のヒロインは悪の誘惑と愛の導きのあいだで宙づりにされたひとりの女性であり、そこには人間存在の多義性だけが厳然と表れています。その多義性は、一義的な物語や意味に回収できないものなのです。
 こうした事態を生きているのは、ヒロインだけではありません。裁判で魔女だとされた老婆は処刑台に括りつけられて火のなかに叩きこまれますが、老婆が魔女だったという証拠はどこにもありません。だとするならば、この老婆もまた、ジャンヌ・ダルクと同じように、宗教的圧制と無知の犠牲者だったかもしれないのです。しかし、ドライヤーは、この老婆の生と死のありようを圧倒的に生々しい現実として描きだすのみで、そこから一定の物語や意味を引きだすことを拒否しています。

奇跡

 『裁かるゝジャンヌ』が聖性を主題とし、『怒りの日』が悪魔性を主題として、現実存在の神秘を探る映画であるとするならば、『奇跡』は神秘の実現そのものを主題としています。
 『奇跡』は、表面的には、奇跡を信じない普通の人々に対して、一見狂人のように見える男が奇跡の起こることを予言し、その奇跡が実現する、という物語に見えます。しかし、ドライヤーの映画を見ていると、そんな奇跡を起こす神の全能を信じよといった説教臭さはまったく感じられません。人間は生きて、死んでいく。それと同様に、死んで、甦る人間もいる。そうした神秘があってもかまわないではないか……。そのように神秘が肯定されているだけのように感じられてくるのです。
 そんな神秘の感覚を作りだしているものは、ドライヤーの徹底したリアリズムです。ドライヤーは、この世にあるすべてのものに等しく生々しい存在感を付与していきます。冒頭で狂人が立つ丘の草原、その背後の空と流れる雲、そこに立ち尽くす人々。一転して、光輝くような室内の壁、窓、家具調度、その空間を横切る人々。あらゆる事物と人間に等しい存在感があたえられ、そこからこの世に存在することの神秘が滲みだしてきます。それゆえ、そのように世界に遍在する神秘の延長として、ラストで、棺のなかに収まった女性が目を覚ますことになるのです。
 この奇跡を保証するものは、徹底したリアリズムのまなざしで現実存在の神秘を見つめるドライヤーの独創的な映像感覚です。それは物語や意味を納得させる映画の技法ではなく、そこに映ったものを絶対的な現実として提示する映画の力の最も純粋な発現なのです。

ゲアトルーズ

 しかし、ドライヤーの遺作となった『ゲアトルーズ』では事態が決定的に変化しています。初期の室内心理劇に戻ったかのように、題材から神秘的要素は完全に排除されています。ただ現実存在だけを凝視するリアリズムのまなざしだけが残って、ヒロインとヒロインをとり巻く男たちの姿を映しだします。
 そこには、『裁かるゝジャンヌ』や『奇跡』でかいま見ることのできた魂の救済の可能性はほとんど感じられません。『怒りの日』で悪の誘惑と愛の導きのあいだで宙づりにされたヒロインのさらに先を行くかのように、ゲアトルーズはつねに虚空を見つめ、愛を求めながら愛を見出すことができず、死を待ちます。
 ラストシーンは固く閉じられた扉で、エンドマークが出ることもありません。かつて現実の凝視のなかから神秘を現出させたドライヤーは、最後の映画で閉じられた扉のような神秘の不在に到達してしまったのでしょうか。これこそ映画史上最も冷厳なショットといって過言ではありません。

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